麻布の片隅で、かつて「静かに消えかけた学校」があった
「順心女子学園」。その名前を覚えている人は、今では少ないかもしれない。都心一等地にありながら、進学実績も目立たず、生徒数も減少の一途。1980年代には約1,700名を誇った生徒数は、2003年には486名にまで落ち込んでいた。東京の教育地図から、静かに消えていくはずの存在だった。
だが、2007年。すべてが変わる。共学化とともに「広尾学園」と名前を変えたその瞬間から、この学校の逆転劇が始まったのだ。
果たしてこれは”教育の奇跡”だったのか?それとも、”戦略の勝利”なのか?
死からの再出発──順心から広尾へ
2007年春、「広尾学園」という新しい校名が教育界に現れた。だがこれは、新設校の誕生ではない。1918年、自由民権運動指導者・板垣退助の夫人らが設立した「順心女学校」を源流に持つ学校が、名前を変え、制服を変え、性別の壁を取り払い、完全に生まれ変わるための”リセット”だった。
生徒数は減少傾向、偏差値は目立たず、施設も古びていた。校舎は都心にあれど、希望者は少ない。多くの学校関係者が「もう時間の問題だ」と口にしていた時代。そんな中で突如として提示されたのが、「共学化」と「校名変更」。つまり──順心は”死んだ”のだ。そして広尾学園が”生まれた”。
この出来事は、単なるリブランディングではない。教育界の非常識とも言える動きだった。なぜなら、教育とは「継承」の営みだという常識が支配していたから。だが広尾は違った。「継承を捨てて、ゼロからやり直す」ことを選んだのだ。
その先頭に立ったのが一人の男──元・塾経営者にして、マーケティング感覚を持つ学園長、大橋清貫氏だった。
教育より先に、経営を変えた
「いい授業をすれば、生徒は集まる」──それが教育界の常識だった。だが、広尾学園は真っ向からそれを否定した。まず変えたのは授業ではなく、”学校の仕組み”だった。
学園長となった大橋氏は、かつて学習塾を経営していた人物。教育の現場にいながらも、経営視点で教育を”設計”できる稀有な存在だった。彼が着手したのは、教員の採用基準の再設計、広報の刷新、入試説明会の戦略立案。いわば、学校を「商品」として再構成したのである。
そのアプローチは明快だった。“偏差値”ではなく、”価値”で勝負する。
インターナショナルコースの設置、帰国生向け対応、探究型授業、PBL(プロジェクト型学習)の導入……これらはすべて、東京の中流以上の家庭が”こんな学校を探していた”というニーズに直結していた。注目すべきは、2003年に日本初のIB(国際バカロレア)導入校となり、その後AP(アドバンスト・プレイスメント)プログラムへの転換を図った点だ。これにより国内カリキュラムとの両立を実現し、生徒は文理・国内外を問わない幅広い進路選択が可能になった。
ここに「教育は中身がすべて」という幻想はなかった。中身が良いなら、それを”見せる仕組み”まで設計する。それが、広尾学園の教育改革だった。
もしあなたが、経営コンサルタントに「教育機関を再建せよ」と依頼したら──きっと彼らは、広尾学園のような学校を設計するだろう。
戦うのではなく、”選ばれる”学校に
偏差値競争から外れた私学が生き残るには、どうすればいいか。その問いに、広尾学園は一つの答えを出した。「競争に勝つ」のではなく、「選ばれる価値を作る」という戦略だった。
渋渋、開成、麻布、女子学院――進学校の名前がひしめく東京。そこに「広尾学園」という校名が並び始めたのは、改革からわずか数年後のことだった。
その成長を支えたのが、徹底的にターゲットを絞った”設計思想”である。帰国生、バイリンガル層、医師家庭、教育に強い関心を持つ親たち。「誰に、どう選ばれたいか」を明確にし、その層に必要なカリキュラムと広報を投じた。
保護者の声として印象的なのは「説明会に来て初めて、ここは普通の進学校じゃないとわかった」という反応だ。偏差値表を眺めるだけではわからない”価値の提示”を、広尾は説明会・施設・カリキュラム設計のすべてで行っている。受験生にとっても「どの大学に行かせてもらえるか」ではなく「自分がどう生きるかを考えさせてもらえる学校」という感覚が、選択の決め手になっているという。
教育を”魅せる”という戦略
校舎は9階建て。カフェテリアはラウンジ形式。理科はサイエンス・ラボで、白衣を着てプロジェクトに取り組む。初めて訪れた保護者が口にするのは決まってこうだ。「…ここ、大学じゃないの?」
広尾学園は「施設すら教育だ」と言わんばかりに、空間を設計した。快適で、美しく、開放的な校舎。そこにいるだけで「学びたい空気」が流れるよう、“空気ごと設計”されたキャンパス。
もちろんそれはマーケティングでもある。だが同時に、生徒が能動的に学び始めるトリガーでもある。教育とは、空気と場所と人の掛け算である。広尾は、それを見事に可視化してみせた。
そしてその設計は、一歩進んでいる。高校生が民間ロケットに搭載する人工衛星「ISHIKI」を設計・製作し、2024年には実際に打ち上げを実現。宇宙工学を志す卒業生はスタンフォードやUCLAへと進学し、夏休みに帰国して後輩に自らの経験を語る。先輩の姿が次の挑戦を生むという循環が、広尾の校舎の中で静かに育まれている。
西大和との静かな分水嶺
奈良の山あいに建つ西大和学園。毎年のように東大・京大・医学部に合格者を叩き出す、”強豪”だ。その裏には、早朝から夜までの演習、寮生活、教員の熱血指導。まさに「戦うための学校」。
一方で、広尾学園に寮はない。課題の量も圧倒的に少ない。週3回までの部活動制限を設け、あえて「余白」を作る。それでも進学実績は着実に伸び続ける。なぜか?「鍛える」のではなく、「導く」からだ。
西大和が目指すのは、”志望校に叩き込む”教育。広尾が目指すのは、”納得進路を自ら設計する”教育。どちらが正しいかではない。まったく違う教育哲学が、同じ「進学校」という名前で語られているということが重要なのだ。
偏差値帯で見れば西大和(70台前半)に対し広尾は69〜70。数字では近接しているが、「学校に何を求めるか」によって選ぶ親子の層はまったく異なる。これほど明確に”棲み分け”が成立している例は、日本の中高一貫校の中でも珍しい。勝ち方は、一つではない。選ばれ方も、一つではない。
数字が語る、広尾学園の現在地
2025年の進学実績は、まさに”多機能型進学校”の名にふさわしい内容だ。東大18名を含む国公立大学79名、医学部医学科94名、早慶上智ICUが378名。そしてもう一つの顔が、海外大学への実績である。
2025年の海外大学合格者数は延べ375名。これは国内高校で断トツの1位であり、2位に160名以上の差をつけている。ただし、卒業生272名に対して375名という数字は、1人が複数校に合格した延べ人数だ。実際に海外大学を受験したのは49名で、うち43名が海外へと旅立っている。過去12年間の累計では、延べ1,000名を超える生徒を海外大学へ送り出してきた実績がある。
注目すべきは、この「海外志向」が単なるブランド志向ではない点だ。同校の植松教頭はこう語っている。生徒たちは「学びたい分野を最も追求できる環境はどこか」という視点で大学を選んでおり、海外大学はその選択肢の一つに過ぎない、と。複数専攻を自由に組み合わせられる海外の大学システムが、学びたいことが複数ある生徒に刺さっているのだ。
また、近年は「最初から海外大学を目指す生徒」が珍しくなくなったという。一昔前は海外駐在経験を持つ家庭が主だったが、今では年間を通じて多くの海外大学が広尾学園を訪れ、直接説明会を行うほどになっている。海外大学進学が”特別な選択”から”身近な選択肢の一つ”へと変わった──それ自体が、広尾学園が作り上げた文化の成果と言えるだろう。
出口なき進学校から、選べる未来へ
かつては、「東大に何人合格したか」が学校の価値だった。だが今、その価値は問われている。「誰が、どこに向かって歩き出したか?」それこそが、学校の”出口”の真価なのではないか。
広尾学園は今、国公立医学部、東大、早慶、そして世界中の大学へと、あらゆる進路をカバーする”多機能型の進学校”としてその名を知られるようになった。
だが、それは偶然ではない。地の利、経営手腕、教育設計、ブランド戦略。それらが見事に組み合わさった”都市型の勝ち方”なのだ。そして今もなお、その進化は止まっていない。毎年更新される海外大学合格者数、宇宙工学に挑む生徒たち、年々層を広げる海外志望者──広尾学園は、”完成した学校”ではなく、今も走り続ける学校である。
もはや「進学校か否か」では測れない。“教育をどう捉えるか”という思想戦で、広尾は勝ちを手にした。
これが、”広尾型”と呼ばれる理由である。
本記事は、広尾学園の実績や教育方針をもとに構成した物語形式の教育考察です。一部に演出・仮説・問いかけを含みますが、事実との整合性を重視しています。


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